『被害と支援の「線引き」は誰がする?』
青森県・八戸市。
全国でも屈指の水産都市で、特にイカは全国一の水揚げ高を誇る。
この時期、港には160トンを超える中型のイカ釣り漁船が、
ずらりと並んでいる・・・はずだった。
漁港としての歴史は古く、寛文4年(1664年)に八戸藩が
誕生した頃にまでさかのぼる。
また明治29年、昭和8年の三陸大津波でも大きな被害を受けていて、
街を見下ろす公園には津波被害を後世に語り継ぐための碑が飾られていた。
(「地震海鳴りほら津波」)
(津波をモチーフにしたモニュメント)
今回の「3・11」津波では1名が死亡。住宅約230棟が全壊した。
被害が甚大だった岩手・宮城・福島の3県と比べ、あまり報道される機会が
少ないものの、抱える悩みは形は違えど同じである。
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僕が八戸市を訪れたのは4月19日、震災から1ヶ月ほど経った頃だった。
被害が比較的少なかった、とはいうものの200以上の住宅が全壊、
住民は避難生活を余儀なくされていた。
市内に設置された避難所は全部で4か所。
65人がまだ新たな生活基盤を探しながら、不便な暮らしを強いられる中、
突然、行政が通告したあること・・・。
「今月30日をもって4か所の避難所を閉鎖する」
あと10日ほどで避難所を閉鎖するから、ここから出て行ってください、
という一方的な「通告」だった。
あの日、突然仕事や自宅を失った人々に対し、あまりにも無慈悲な言い分だと
避難民は憤ったし、僕も同感だった。
何故、事前に説明や相談もせずに、このような形で避難民の神経を
逆なでするようなことをするのか、理解に苦しむ・・・とは思ったものの、
行政の言い分も取材してみる必要があるのも事実。
聞けば
「公営住宅や雇用促進住宅への入居(家賃無料)や、見舞金の支給が
すでに始まっているから」
とのことだが、行政はいつもそうやって一括りにしたがる傾向が強い。
避難民が65人「しか」いないと考えるか、避難民が65人「も」いると
考えるか、こんな時だからこそ、血の通った対応が求められるのではないか。
そう思い、避難民の皆さんの声を拾ってみる。
松坂光男さん(60)
「たった10万の見舞金で、新しい生活を始めることができるのか。
雇用促進住宅に入居が決まったからと言って、生活に必要なものは
こちらで全て購入する必要がある。
テレビもない、冷蔵庫もない、そんな状態で新しい生活が始められると
思っているのか。」
伊藤友工さん(62)
「長年勤めた建設会社をクビなったばかり。ようやく最近アルバイトを
始めたけど、今後生活していくには、お金がかかる。
ガス代や電気代はこっち負担だしね。ここに居られるなら居たいけど・・・」
川畑秀男さん(67)、節子さん(61)夫妻は4人家族。
「30日までにここを出て行く目途が立たないんです・・・」
そうつぶやく秀男さんの腕の中で、飼い犬のポンタがワン、と吠えた。
川畑さんは何とかして家族4人(+1匹)で生活を再スタートさせたいと
考えていた。
そのためにはペットを飼うことが認められていない公営住宅ではなく、
アパートか一軒家を借りるしかない。何とか入居可能な住宅を見つけたものの、
津波の影響で畳の貼り替えなどの作業が発生しており、どれだけ急いでも
入居は5月以降にずれこんでしまう、とのことだった。
川畑さんのケースは極めて特殊なケースなのかもしれない。
犬の1匹や2匹のことなんか構っていられない、ということなのかもしれない。
しかし、津波で全てを失った川畑さんたちから、さらに愛犬まで奪う権利は
誰にもないはずだ。
いつまでなら退去が可能なのか、避難民から可能な限り意見を聞き、
それに対応していく必要があるのではないか。
今回の震災では「心のケア」の重要性が叫ばれている。
一生に一度、経験するかしないかの悲惨な状況だからこそ、
我々メディアや行政は出来うる限り丹念に被害者の声に耳を傾け、
対応していく必要があるのではないか。
数の多少ではない、ましてや平均値でもない。
個々の抱える悩みや問題点が多いからこそ、きめ細かな取材や支援が
求められているとの意を強くした。
画一的な報道は絶対にしない、僕は、そう心に誓って次の取材地へと向かった。
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八戸市は予定通り4月30日で、全ての避難所を閉鎖。
この日退去した避難民は10人だった。
震災直後は69か所、9257人が避難していたが、この日以降、
八戸市の公式発表は「避難民0」となった。