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『テレビ的な正論』

当初より、この回を書く目的は、

「ADたちの、311から1年シリーズ取材後記を読んだ感想文を載せること」

だ。
しかし、読んでくれたある人のある感想を聞いた時、
ひとつの思惑が生まれ、というか昔から抱いていた考えが再燃し、
僕の頭から離れなくなった。

しかしそれは後に置いておき、まずADから寄せられた感想を並べたい。

ADぱっつん
『テレビには伝える事しかできないし、伝え続ける事が使命である』の感想

「テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように
報道し続けていくことに尽きると信じている」と奥村ディレクターは言う。
このような考えを持って一年後の3.11を迎えたテレビマンはどれだけいたのか。
「もう去年の惨事を思い出したくない、またはそこまで長く見たいと思わない
(震災特番がこの日放送されていたため)と思う視聴者もいるよね。
でも震災から一年目を迎えた次の日の朝のニュースで、
これらのネタを少ししか取り上げないのも変だよね。」
今年の3月11日、私はとある朝の情報番組のスタッフルームにいた。
次の日のOAを控え、曜日チーフが発した言葉に、違和感を覚えつつも、
それもそうだなと思ってしまう自分がいた。
一年前のあの大惨事があった一年後の3月11日、新聞各紙、一般紙もスポーツ紙も
震災ネタが多く、明るい記事は多くなかった。
海外アーティストが被災地を訪れたり、某アイドルグループがイベントを行ったり、
ネタは多いが内容は明るくない。
次の日のOAで取り上げる新聞記事を選ぶディレクターの様子を見ていても
震災はもう過去のことであり、関心が薄れてきているように感じることもあった。
テレビは第4の権力と言われるだけあって、その影響力、世間への浸透力も高い。
そのテレビに関わる人々が被災地へあまり目を向けなくなっていったら
徐々に3.11は忘れられていくのだろうか。
それでも今年は映像業界を華やかにするのに欠かせない多くの芸能人が
被災地を見舞い、イベントを行った。
その芸能人が旬な芸能人であればあるほど、または大物であればあるほど、
メディアは彼らの行動を取り上げないはずもないし、視聴者は彼ら見たさに
そのネタに注目するような気がする。
結果としてこれは人々が被災地への関心を持ち続ける口実になるのかもしれない。
ただ報道をするよりも、彼ら芸能人の力を借りてこのテーマを取り上げることで
人々が3.11を忘れないきっかけになるのかもしれない?と
某アイドルグループの1人が大袈裟なくらい泣いている映像を見て思った。
芸能人の存在意義の一つが分かったような気がする。
シンディー・ローパーが被災地に対して発言している会見の書き起こし作業をしながら、
シンディーの熱い発言を聞いていて3.11を忘れてはいけないなと
思ってしまったミーハーな人間の1人は私だ。

奥村Dの取材後記には、ADヨネ子からも感想が寄せられた。

美談は報道の敵かもしれない。
報道が拾い上げなければならない「無念」は美談などとは縁遠く、
美談は事の問題点をうまく隠す力を持つ。
永遠に「無念」の原因を葬り去ることができるのだ。
町長は助かったはずの命だ。
奥村ディレクターによる取材で初めて推測できたことだが、
地震直後の職員らの行動は津波被害を十分に想定していたうえでのものではなかった。
人命救助や職務に忠実であった彼らの思いが報われたとは言いがたい。
防災マニュアルという過去の教訓が生かせなかったのは、なぜなのか。
ここから初めて私たちは「疑問」をもち、「無念」を拾い上げる
スタート地点に立てるのではないかと思う。
「震災報道」として多くのディレクターや記者が被災地で取材をしてきたが、
亡くなった人の声に耳を傾けることは難しい。
「無念」が晴れることはないし、きれいに整理できることもない。
これを踏まえて取材をしていきたいと思う。

ADヨネ子
『「2万人近く」と「14人」』の感想

数字とは恐ろしいもので、ある一定数を超えると独り歩きして
私たちがつかめないものに変化する。
ひとつひとつが霞んで、2万、3万という塊でしか受け止められなくなる。
東日本大震災によって私たちは「2万人近く」の命を一瞬で失った。
私もこの「2万人近く」をどう受け取ればよいのかわからない。
震災後、毎日膨らんでいく死者・行方不明者数をただぼーっと見つめた。
これは1995年の阪神淡路大震災直後の記憶と同じだった。
朝刊トップの見出しには連日、死者・行方不明者の数が並んだ。
数字は世界共通のコトバだが、その人の顔も声も、人生の何一つ表現することはできない。
共通の認識をもつことはできても、数字が伝える情報量は
私たちが思っているよりずっと少ないのではないだろうか。
杉井ディレクターが偶然足を向けた中学校で見つけた、
学校の机とメッセージの方がずっと伝わる情報は多い。
14人の呼び名やさまざまな字体、新しい机なのに錆びついた脚、
そしてそれに足を止めたテレビクルーがいる。
整理できないものこそが、私たちが直面している現実なのだと感じた。

ADアカメン
『語り部』の感想

全体の取材後期を通して読んで感じたことは
捕らえようの無い大きな現実に読んでいる人たちは
何をどう感じればいいのだろうということだ。
それは見る人それぞれ自由に捉えればいいことだと思うが
僕の目線からすると単純に「どうすればよいのだろう」と思ってしまう。
当事者としての意識が無いのだ。
だからTVを通した現実を現実として捉えることは難しい。
やはり自分で体感するほか無いのかと思うが
下手に手を出すと中途半端になってしまう。
ボランティアならばいいが出来ることは限られている。
TVの怖いところは報道というある種の「正義」という権利が
ディレクターに舞い降りた時、それを行使することだ。
映像で被災地を伝えること、現場の緊張感、センチメンタリズム、
それぞれのディレクターは何を伝わんとするのか、
この非常事態に美談や悲劇を伝える意味をディレクターは
どの時点で気づき苦しんだのだろうか。
放射能を恐れなかったのか?打ちひしがれる感覚は?
その感情を振り払うかのように再度訪れたい、会いたいと思う
その気持ちはどこから沸いてくるのか?
その気持ちを映像にどのようにして収めたのか、あるいは
収めきれなかったのかを僕は直接聞きたい。
「仕事で頼まれたので」という理由以外を僕は望んでいる。

取材後期の中からひとつ選ぶとしたら、黒崎Dの「語り部」だ。
一人の少女の記憶をメディアと呼ぶ。
彼女はなぜ語るのか?語るという行為は彼女にとって
どのような意味を成しているのか?そこが一番大切なところだ。
その尊い行為を機械的なメディアというひとつのツールとして呼ぶことに
少しばかり疑問を抱く。
僕はその少女がいつか語り部を辞める時が来ると思っている。
忘却である。
その記憶をとどめるのが我々メディアと呼ばれる機械的な職人集団であってほしい。
人間はいつか死ぬ。百年という単位が人間にはあると思う。
百年前の人間が東北地方に起こった地震の記憶を留めるために
書物や標石を立てた。
その記憶は思いのほか伝わらず東日本大震災で多くの人々が命を落とした。
百年という単位の中で記憶は風化し見えずらくなる。
百歳を前になくなる人間はひとつ下の世代に伝言を残さなければならない。
しかしそれは伝言でしかなく、言語の響きだ。
百年前にメディアは存在しなかった。今は多くのメディアが存在する。
その文明を持った世代が百年後の私たちの世代だ。
この違いがどのような未来をもたらせるのか百年を振り返る時期が
世界にやってきたのかもしれない。

「あの日を忘れないために、テレビができることは何なのか」

テレビに携わる者は、必ずこの命題を頭に設定したと思う。
ADたちも、取材後記を書いたDも、そして僕も、この、
ある意味疑いようのない、間違いのない言葉を頭の片隅に置いているはずだ。

しかし、僕に投げかけられたもうひとつの感想が、石となり、
僕の脳に波を立たせた。それは

「復興、や回復への解決策(方法論)こそが最も重要で
TVもそのレベルに参加していくしかないと思います」

という、感想。

テレビは、忘れないために放送し続けるだけでいいのか?

我々は、撮り続けていく事しかできないのか?

忘れないことが、最終地点なのか?

すでに起こった出来事を撮るのではなく、何かを引き起こす主体になれるのか?

過去、現在ではなく、未来を作り出す事が、テレビにはできるのか?

まず僕に必要なのは、「テレビ的な正論」を認識した上で、
巧妙にそのピットフォールを回避する事、だった。

こんなことを考えている人が他にいたなら、ぜひ話をしてみたいと思う。

終わり

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