震災直後に東北入りしてから、○日後、○年後、と節目節目で東北を取材、特番を放送してきた。
新潟県中越地震、スマトラ島沖地震(共に2004年)など、数々の震災や津波の現場を取材してきた。もちろんそれ以外の現場取材も含めて、テレビディレクターとしての経験は豊富な方であるという自負があった。
新潟では震度7を記録した町を目指し、豪雨の中を飴のようにひん曲がった道なき道を何時間も歩いて、被災者の声をいち早く取材したし、スマトラ島沖地震では、死体がゴロゴロと転がる地獄のような現場も取材した。必死になって行方不明の家族を探す父親、母親の想いにも触れた。
そんな「極限状態」とも言える現場を「踏んで」いたのにも関わらず、「10年前の東北」の現場では本当に足が震えてしまった。いや、竦んでいた、と言ってもいいだろう。
これは比喩表現でも何でもなく、本当にガクガクと震えていた。
自分の目の前の光景が、かつて足を運んだことのある東北と同じだと、俄かには信じられなかったということなのだと、今では思う。
数え切れないほど多くの方々の取材をさせて頂いた。中でも印象的だったのが、赤沼ヨシさんだ。
大正6年10月26日生まれで、最初に出会った取材当時93歳だった。
何かと不自由な避難所暮らしを強いられているものの、至って元気で明るい様子。昭和8年の大津波の後と比べれば、天国のような暮らしだと朗らかに話す姿が印象的だった。
それもそのはず、聞いて驚いたのだが、当時は救援物資もろくに届かず、雪が降り続く中で、掘立小屋を建ててムシロに寝ている人も多かったという。食べる物も殆どなく、ごく稀に手に入る握り飯も寒さのためにカチコチに凍り、また着る物もなく、ただひたすらに救援を待つ日々。
遺体が片付けられることもなくあちこちに転がり、数少ない食料品などを人々が奪い合う光景は、まさに地獄のようだったという。
ヨシさんはこの田老の地で生まれ育ち、また父・堀子丑松さんは、明治三陸大津波の数少ない生き残りとのこと。首筋がチリチリするような不思議な感覚…。
【凄い人に出会ってしまった!】
…そう、テレビディレクターとしての勘が告げた。
「その時は、お昼を食べとりゃした。お昼さ、夢中になって食べとるところに、どーんというように盛り上がるような、横揺れに・・・立てないから四足になって玄関まで行きゃーした。変な地震だなぁ、とその時は思いやして、慌てて玄関に出りゃーした。」
その日、ヨシさんは遅めの昼食を一人で食べていた。
午後2時46分。
時計の針がその刻を指した瞬間から、ヨシさんは再び地獄の淵を覗くことになる。
高齢に加えて、方言もきつい。
何を意味するのか分からない言葉も多く、またなぜか廓詞のようなものが混じっていて、非常に聞き取りづらかったものの、そのひとつひとつがとてつもない価値を持っている事は十分に理解できた。僕は喰らいつくようにペンを走らせ続けた。(もちろんカメラは回っている)
「前の昭和8年のね、津波のようたれば、第一波が来て、それがまた引いてから、第二波が来たんでござんすが、今度の津波は一波も二波もねぇ。海が盛り上がったみたいに来んでござんますもんで・・・引き波も何にもないような・・・」
一言、一言振り絞るように語る、93歳の証言の重み。
「わだし、一生懸命走って10メートルも行かないうちに、ガリガリガリって音がして後ろを向いたら、波が防潮堤の上を3メートルだか、4メートルだか乗り越えて、波の上がキラキラ光りながら、こっちに来んだもん。昭和8年の津波の3倍はあるってピンときたでござんす。それから一生懸命逃げた。押し車を押して・・・。でもその車がいうこと聞がねぇ。」
今回の津波がいかに巨大なものだったか。
昭和8年時のそれの3倍はあったとヨシさんは語る。
もちろんそれは正確なものではないのだろうが、実際に2度の大津波を体験しているだけあって、言葉に迫力と説得力がある。
波というより、「のっ、と」海が浮き出てきたような感じ…
そう何度も繰り返すヨシさんは、逃げながら不思議なことに気が付いたという。
「昭和8年の時もその通り。誰も津波だ!という人は一人もいないでござんした。みんな無我夢中で山に登るんでございます。もう夢中になって声も出ない。津波で逃げっ時は、本当に誰もみんな何も言わないでござんすよ。隣の人も呼ばないでござんすよ。自分たちの命を守るのに一生懸命で。誰も津波だー、という人はないござんす。今度もその通りで・・・。」
津波てんでんこ。
大声で叫びながら逃げるようにと訓練されてきたにも関わらず、いざとなると言葉もなく、ただ黙々と逃げるしか術がなかった田老の人々。さらに過去の津波の恐ろしさを知らない人々の中には、のんびりと立ち話をしていてそのまま帰らぬ人となったケースも多かったという。
インタビューは休憩を挟みながらも半日以上に及んだ。
跡形もなく無くなってしまったヨシさんの家(があった場所)の前で、最後に僕は、散々悩んだ挙句に、こんな質問をしてみた。
—またここに住みますか?
ヨシさんの目が潤む。
聞いてはいけない質問だったのかもしれない…後悔の念がよぎる。
しかし、ヨシさんは力強く僕の目を見据え、こう切り出した。
「生まれた里で、生まれ故郷で終わりたいと思っておりんす。100歳まで生きたって、あと7年しかないでござんす。その人生をどうやって暮らしていくか…。それまでにこの田老がどう復興すべか、どのように変わっぺか、それも見ておきてぇす。やっぱり故郷は捨てられないでござんす。」
その時、ヨシさんの脳裏には、昭和8年の大津波から力強く復興した、かつての田老村の姿が蘇っていたに違いない。
また再び、全てを失い、何もかも無くなってしまったけれども、この田老は再び元の姿に戻ることが出来る、そう確信していたのだと思う。
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そして10回目の、3月11日がやってきた。
残念ながら、ヨシさんはすでに亡くなり、10年後の田老を見ることはなかったが、見事に復興を遂げた。人々の住まいも高台に移ったが、日常も戻ったように見える。
今日、テレビや新聞紙上では「あれから10年」といった言葉が踊っている。しかし、それは単なる通過点に過ぎない。
東北の人々にとっては3月9日も、3月10日も、3月12日も、そしてその翌日もそのまた翌日も、辛く苦しい日々が続くことも、また現実である。
テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように報道し続けていくことに尽きると信じている。そして、それが僕たちにできる、確かな復興への貢献だとも考えている。
株式会社メディア・ワン 代表取締役 奥村健太(2021年3月11日記)